浮遊する


まず視界がぼやける。ものとものの輪郭が滲んでぐにゃっとして、水分の少ないこってりした絵の具を筆でぐるぐるかき回されたみたいに視界の色が混濁する。つぎに寒いのに汗が出る。なのに頭とか顔とかはぶわっと突然発熱する。それで、肩から上が上からクレーンみたいなものでふわっと取り外されるみたいな感覚になる。ここでおかしいと気付いて自分の手をみる。自分の手なのに人の手のようなものに思えて、それが目の前で力なく転がってる。気持ちが悪くなる。机、椅子、床、壁、まわりのひと、全てが平面の世界になったように感じる。そして自分の声が聞こえるんだけど、人の声みたいに感じる。自分だけが平面の世界で縦横奥行きの形を持つことが異質だと感じてさらに気持ち悪くなる。なんでここにいるのかわからなくなる。ここっていうのは例えば、学校だったら、なぜわたしは学校にいるの?ではなくて、なんでここに形があるの?という感覚。自分が形を成していることが怖くなっていく。でも最後の理性みたいなところで自分に暗示をかける。「これは現実、大丈夫、大丈夫、大丈夫」かけつづけたところで、パッと視界がいつもどおりに戻る。まだ少し感覚が鈍っているけどゆっくり瞬きをして現実だと理解をする。掌を握っては開いてを繰り返して、血の通ってる自分のものだと理解する。感覚を取り戻して、またふつうに過ごす。この間、1分経ってないくらい。


中学生のころくらいから、しんどくなるとこういうことがあるんですが、久々にあったので忘れないように書き残しておく。症状を調べたら名前が付いているものが出てきた。わたしが知らないだけで世の中のものには大体名前がついてることを知る。そしてこれを体験している人がいるんだと安心した反面、少しだけつまんないなと思っちゃう自分がいる。

逃避行



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夏の夜の海がすごく好きです。ちょっとべたつく感じの潮風、いいですよね。そんなに頻繁に行ってるわけではないし、むしろ訪れたほうが少ないですが。

地元の大きなお祭りに花火をみにいくときは、友人のお父様の所持してるクルーザー(すごい響きですね)に乗って、海から花火を見ていました。花火ってあれ、打ち上がったとき、空中だとどう並んでるんだろう。四方向に球状に広がっているのかな。遠目から見たら平たく打ち上がってるように見えるよなぁ、とか思いながら微妙に下から見てました。そうね、とりあえず花火に集中してちょうだいね。


cat napの二人の曲を歌うのはこれで4度目です。そうです、ファンです。

初めて歌わせていただいたミッドナイト・プールから、slow snow dance、そしてwolfからの、今回はレイジー・クルーズ。限りあるプールという狭い空間から、冬に一回踊って、月夜に吠えたのち、どこまでも広い海へ。


夕方から夜へ、感情の波とともに変わっていく曲調にやわらかい言葉が合わさって出来た中に、けだるげでとりとめのない、まろやな狂気を感じる会話。帰り際になんちゅー話ししてんだ。好きです。

本家のミクさんはわりと淡々と喋ってたんですが、私はちょっと生々しい喋り方にしてみました。めんどくさい二人はきっとずっとこの会話を続けているのかな。どちらか"殺さないと"このままなんだろうな。っはー、好きですね〜。


なんとなく、どこか知らない場所へいけるかもしれないという希望を持ちながら二人でどこまでも終わらない航海をしているのかなぁ、とか思いながら歌いました。おとなだからこそね。目的地のないずるずる進行という停滞、ありますよね、ずるいおとなだからね。そういうとこもね、好きなんですけどね。


めっちゃ好きなんです、cat napの作品。

ミクとねこむらさんのボーカルから感じる、どこか浮遊感を感じるのに、有機的で、生々しい、温度のある今回の楽曲。出会うことができて本当によかったな。お二人から嬉しすぎる言葉もいただけてちょっぴり涙がでちゃった。幸せ者です。


そんなわけで、終わらないミッドナイトに揺蕩う、ターンオンザミッドナイトクルージングミュージック〜〜っっ!コムギコが歌うものでも楽しんでいただければと思います。

sabão

台風の日はシャボン玉吹いて世紀末に遊ぶ人ごっこするタイプ。コムギコです。

ちゃんとブログを活用していこうと思います。


最近、文章解析のアプリ?なんだろう、なんか、そういうのを見つけたので、最近書いてた文章を解析してもらったら、「きみは連用中止法をよく使ってるね〜」って出てきて。なにそれ、となって調べたら確かによく使っていました。

何気ないアウトプットのなかで、知らず知らずのうちに好きなやり方が滲みでて、それがその人の個性や癖になってる感じ。客観的にきづくと嬉しくなります。なんとなくしていることにも、きっかけや影響、意味って確実にあると思うんですが、そういうのに気づくと、嬉しくなります。

あと、感想とかいただける言葉って、単純に見ていただけて言葉をもらえるということが嬉しいんですけど、そこから客観的に自分のことを知ることができる楽しみがあるんですよね。ジョハリの窓的なアレ。


初っ端から話が逸れましたが、蜂屋ななしさん方のシャボンを歌わせていただきました。



シャボン 歌ってみた【コムギコ】
http://nico.ms/sm35387566



蜂屋さんの曲に出てくるかき乱すようなのに繊細なピアノの音や、トリッキーな木管系(クラリネットかな?)の暖かい音色が好きです。吹奏楽部のときもこういうスウィング系のリズムの曲が好きだったので、その時のこと思い出します。まあチューバという低音楽器だったのでずっと下でぶんぶんとリズムを刻んでたんですが。わかるひとにはわかると思うんですが、楽譜が黒いほうがテンションがあがります。真っ白なのもそれはそれで好きですが。


シンプルに、こういう緩急つけて遊ぶように歌う曲は歌っていて気持ちいいー!

その場のテンションで歌い切るのでカラオケとかだと結構選曲するんですが、録音となるとちゃんと音源として残すために丁寧にやらないといけないと思いつつ、遊びたくなっちゃうので、あんまり形にしないんです……ずぼら……えへへ……集中力のなさ……最近録音にはラムネを持って行ってます……意味あんのかはわかんないです。


そしてリファレンス元をちらりとはっておきます。majikoさんの高音の心地よさと激しさのバランスに憧れるところがあります。


majiko - パラノイア

https://youtu.be/_cnHxTaGrYQ




そしてスペシャルゲストに溝さんをお迎えして少しだけ歌っていただいてます。ひくい溝さんの声めちゃいいですよね。色っぽい、というコメントを見たんですが首が取れるくらい頷きました。(取れてません)

これでひとつの命が救われました。ありがとうございました。メシア。


溝さんの歌ってみた(最近よく聴いてるものをはります)


アンヘル」歌ってみた@溝
http://nico.ms/sm35244874


めちゃいいんですよね。特有の世界観のあるや声や歌い方をするひとは魅力的だなと思います。




最近、夏が嫌いなんじゃなくて、単に暑いのが嫌いなんだな、と思うことが増えました。

夏にみるキラキラしたものはいいな、とか、夏の空の色や大きな雲とか、文化だとかそこにある情緒みたいなものとか、暑いのは無理なんですけど、夕方の蒸し暑さとか、しめってるけど涼しい風はむしろ好きだとか。

最近は夏とガラスの相性ってめちゃめちゃいいなということをずっと考えたりしてました。風鈴、ラムネのビー玉、そうめんの器。あとびーどろという響きがめちゃめちゃにいい。ビードロポルトガル語らしいです。天ぷらやブランコと一緒ですね。輸入された言葉ね。


主に揺れたり光ったりするものに弱いです。猫か?


着地点が見えなくなってきました。梅雨入りも遅くて最近は涼しいのでできればこのままで秋まで行って欲しいんですが中々そうもいかないですよね。

今年はおいしいかき氷を3つは食べる、そうめんばっかり食べない(すでに手を出している)、がんばって生きる、などを目標にしていきたいと思います。


明眸の春

眠れないのでこうしてまた眠気を遠ざけるようなことをしている。


四月はもうアホバカくそ忙し…いということも実はなかった。あ、でもちょっと忙しかった。心に余裕を持たせるために、見てもらうタイプのわたしをネットの海から消した。心に余裕がなくて切羽詰まってるときこそ承認欲求の芽がぶくぶく膨らんで花咲かせてしまうのはあんまり私にとっていいことじゃないからだ。

個性を発揮することなく受け身であるこの一ヶ月は気持ちがとても楽だったし、自分のそういう部分を一番自分が認めてあげられる月になった。なんと部屋が綺麗になったし自炊もちゃんとしていたので少しお金が貯まった。そんなわけで希死念慮の代名詞、春とかいう苦手な季節もなんとかポジティブに過ごすことができた。


好きだった音楽家、この前の夏は元気に笑っていてまたねと言ったあの人、馴染みのあった漫画家。春の訪れは突然、私に何かを与えてくれていた人たちを遠いところに攫っていってしまった。綿毛かよ。

私はまだ春風に吹き飛ばされるには早いなあと思うけど、いつ連れて行かれるかわからないので今のうちにやれることをやりたいと思った。いつか、という曖昧に遠ざけていた季節も掴んで引き寄せた。だから、いつか、と思って渋っていた隣の県へのプチ旅行をさ。あと、私の人生のなかで一番やらねば後悔しそうな夢みたいなものにもやっと着手した。今年の目標にしていたことも、少しずつ手をつけている。偉いね。


前に進めているような気がする春だ。文字通り、実りの秋にそなえて、種を蒔く。そんな季節。



フレアゴースト


寂しいのも苦しいのもつまんないのも自分が何かしようとしてないときに感じることに気づいたので、今年はもう少し自発的に人に関わりたいと供述しています、私です。


如何せん、ひとり遊びが得意なので、人を誘うだとか自分の暇に付き合ってもらうとか、そういうのが苦手な部類だとは思うのですが(たまに誘ってる人たちへ、毎回の如く声をかけるかめっちゃ迷った挙句ドキドキしながら誘っています)、待ってるだけじゃつまんないし、ある程度何かしなければこっちを向いてもらえないと。
というか人と何かするって単純に楽しいです。もちろん苦しいこともあるし、考えることもたくさんあるけど。なにが楽しいって、自分の見えなかった一面が見えたりすることが多いこととか、楽しくなりますね。化学反応ってやつですね。何か新しいものに触れないと自分の知らない一面って見えないと思った最近です。
他者に触れることで、自分自信のことを蝕むことも、きっとあります。関わることで分かり合えないと分かることもある。皮肉ですが。でもそれで得るものがあるなら、私は今の所そっちがほしいです。無理なら逃げちゃうし。

私はもっと楽しいことがしたい。いつかのブログだかでも書いたんですけど、ごくごくシンプルに考えて、どちらかといえば楽しい方が良くないですか?私は楽しいことがね、すごく好きです。

なんでこんなに人と何かをしたい、あれこれやりたい、と思っているかというと、時間は有限だと最近ひしひし思うから。言いたいことが言えなかったことに変わるのは思ったより簡単で、あっけないし、殺伐とした生活の中では、余裕がないと忘れてしまうことも多いし、その速度は思ったよりはやい。心残りだとか後悔は、思ったよりも深く傷をつけているし、満たされないと、また同じことずっと思うんですよ。つくづく似てる、口内炎に。

そんなわけで私と何かしましょう。もちろん楽しいお誘いだって待ってます。


去年、実は歌以外の活動に熱を注いでいた時期があり(主に夏頃ですね)、ハマったときはぶわーーっともう狂ったように毎日作業していたのですが、やっぱり元々飽き性な人間なので最近はあまり手をつけておらず。そんな中で続いてる音楽への関心や歌うという行為だとか、あとは落書き程度ですがイラストを描くという行為はきっと、私の生活からは切り離せないものなんだなと思うこの頃です。

もしかしたら飽きてしまう日が、もしくはやめざるを得ない日が来るのかもしれないけれど、まだまだこの承認欲求の満たし方はやめられそうにないと思っています。きっとまだ伸び代があると自分で信じているので、気ままにお付き合いいただければ幸いです。

そうです、たぶん、好きといってくれる人はまだいると信じているし、信じられることはこれくらいなのです。言霊ってね、あるしね、思ってるだけじゃ伝わらないってのはマジなんですよね。文字や音になって初めてその思考は形を成す、共通理解のできるものになるのです。
というか好きって言葉はね、凄いんですよ。みなさん、好きな人には好きって言っといたほうがいいですよ。好きと言える時間にも限りがあるので。ああでも好意の押し付けという名のエゴや自慰行為にはならぬようお気をつけ遊ばせ。

支離滅裂ですがこの辺で終わります。年明け感がないわりになぜか気持ちはポジティブなので明るい気持ちのうちに文章という形にしておく。たぶん今はわりと心が健康な状態なのでこんな感じなんですが不健康になった際は「もーしらないわよ!1人の世界にとじこもります!」と言ってるのが目に見えております。なのでまた自分のために読み返す用にアップしておく。

いやしかし去年のブログ、鬱の極みですね。やっぱりぼんやり生きてちゃだめだぜ。


微熱

今日突然寝たまま死んだら誰が見つけてくれるのかな、みたいなことを考えて眠る夜の回数が多くなっている


このまま生きて、どうなるんだろう。生き延びたという満足感も、反対に得る後悔も、死んでしまえば意味がないのに。希死念慮の一種なのかな。別にしにたいわけではないし、もし長く生きるならヒールを履いておしゃれをするおばあちゃんになりたい。


どれもこれも、不安とか寂しいとかの表れなんだろうけれど、漠然と死を意識することが増えたせいなのかな。まあ体験したこともないからわからないのですが。

ねむり


わかってほしいなんて思わないし、わかりきるなんてことができると思ってない。だからこそ言葉などの道具を使って、少しでも相手の考えや感情の尺度をはかるもの、だと思っている。

ちゃんとわかりあう、ということだとか、本当の共感、はできない。人それぞれ、様々な経験や感覚の果てにある感情に、一般的な名前をつけて共有しているだけだ。でも、それでも1つの言葉を使って同じくらいの感覚を共有するというのはとても楽しいことだし、嬉しいこと、だと思う。

だからこそ、好きな人たちと本当に理解しあったりすることは無理なんだな、と気づかされて、わかっていても、とても悲しくなってしまった。

わかりあえると思っているひとと、わかりあえるわけがないのだ。ひどく滑稽。